「 a light snow fall in spring 」

 〜その花の名をいつか囁く〜


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春だ、どういうわけか 春になったという この世界は、いつだって突然だ。
確かに ハートの城の領土を見渡す限り 色とりどりの春の花が咲き乱れている。

どことなく霞のかかったような、
萌黄色のベールが空全体に覆いかぶさったような、そんな風景だ。
空気が暖かいような、ぬるいような、
なんともいえない独特の気温で眠気を誘う…これぞ、まさに春だ。

(春としか言いようが無いわね…)

そんな季節の訪れを噛み締めながら歩く道を、先に立って
案内役をかってくれているのは、恐れ多くもハートの城の宰相
ペーター=ホワイトである。

そんな彼の脳内もまさに春としか言いようが無かった。

(春だ、春だわ…)

春を迎えた領土を、跳ねるように歩く彼のウサギ耳は、
いつもにも増してウキウキとして、ふわふわと揺れているように見えた。

(ふふ、まるで白い花が風にそよいでいるみたい…)

そんな春の景色の中、私とペーターは森へ続く道を歩いている。
ペーターはいつものように私の手を引いてくれていた。
だが、森といってもドアのある不気味な森ではなく
ハートの城の領土内にある、いたって平和な分類に入る森だ。
そこにペーター曰く、私の好みそうな素敵な場所があるという。

このペーターに「素敵な場所」なんて思うような感性があったのだろうか?と、
今更になって疑問に思うが、彼なりに私が好きそうだと判断した場所なのだろうから、
それがどんなものなのか、それはそれで気になった。

「こんな森の奥に、そんな素敵な場所があるの?」

「ええ、あなたの好みそうな花がたくさん咲いているんです、
 もうすぐそこですよ、僕、あなただけに一番に 教えたかったんです!」

ペーターが得意げに微笑む。

白ウサギの赤い瞳が柔らかな木漏れ日の下でそれはもう、
ゆらゆら きらきら と、あぁ、なんて乙女なのかしら…
いっそ彼がヒロインでもいいじゃないかと思うほどに純粋な輝きだ。

(相変わらず恥ずかしいヤツ…)

そんな私の気持ちとは裏腹にペーターは続けた。

「もしあなたが気に入ったら、そこを
 僕達 二人だけの秘密の場所にしませんか? ね、いい考えでしょう?」

「……気に入ったらね」

私は 不承不承に応えたけれど、悪い気はしないもので、自然と笑みがこぼれていく。

森に溢れる淡い緑は美しくて いたる所にレースを被せたように幻想的だったし、
確かにここは不思議の国なのだけど 今、ここにある美しさは、
私が昔から知っている種類のもので、芽吹いたばかりの若葉の色や、
朝靄に柔らかな日差しが差し込んで揺れる様も、明るい草色で覆われた
地面に赤いビーズを散りばめたような苺の繁みも、そこに咲く野バラも、
知っている、春だ、春の森の美しい風景だ。

巡って来るたびに、知っていて尚、嬉しくなる季節の色、そして匂い。
それらに包まれて こんなにも、私は安心する。
久々に四季を味わう感覚の 懐かしさに…、
不思議の国に気まぐれに訪れた、嘘吐きの季節だけど…
あぁ、これが嘘でも構わない!

わざわざペーターの言う、素敵な場所に行かなくても、
すでにこの森全体が素敵な場所に思えた。
何気ない光の変化にも、嬉しくなってしまっている自分に驚く。
ソワソワして落ち着かないのに、楽しくて仕方が無いのは何故だろう?
これが本能というものだろうか?

春だからってだけでこんなに浮かれるのは少し気恥ずかしいけれど、
私よりもより動物に近いと思われる白ウサギのペーターはどうなのかしら? 
やはり春の喜びに、いつも以上に浮かれているのだろうか?
むしろ野生に返って…たりしたら嫌だな…ただでさえセクハラ全開 変態ウサギなんだから、
この上さらに動物的というか野獣というか、そういう感じになられても、いろいろと面倒だ…
まぁ、ウサギ姿になるっていうなら問題ないけど、

(彼の場合、出会った時からすでに浮かれ狂っていたから、解り難いわね…)

ペーターの背中と揺れる白い耳を眺めながらそんな事を考えているうちに、
薄暗かった森全体が 光に包まれたように明るくなる、
どうやら木々が無く開けた場所に出たらしい。

「さぁ、着きましたよアリス、いかがです?」

ペーターは私を振り返りながらそう言って、うやうやしく、
光の方向に手を広げて見せた。

それは、本当に素敵な場所だった。

見た事も無い美しい形の花が、一面に咲き誇っている。
まるで森の中で、光る真白の絨毯を広げたようだ。

さらに光の瞬きに目を凝らせば、それは無数の白い蝶で、
それらがチラチラと小刻みに羽を動かし陽光を反射させて輝いているのだった。

まるで小さな楽園、決して大袈裟な表現では無い。
取り囲むような森の闇が、さらにその空間を特別なものだと思わせてくれる。

「うわぁ……!!」

「どうです?アリス、気に入りました?」

「ええ、ええ、もちろん、気に入ったわ、何て綺麗な場所なの!とっても綺麗!!」

「そうですか?よかった…、気に入って貰えて、僕も嬉しいです アリス!」

「綺麗!本当に素敵だわ、ねぇ、ペーター!これは一体、何て言う花なの?」

「一応、調べましたけど、蘭の一種のようでしたよ、毒も無いようですから触っても大丈夫です」

「へぇ、そうなのね、で、名前は?」

「え? すみません… そこは気にして無かったので調べていませんでした…」

(フツーそこから調べるだろ…)

相変わらずペーターはズレてる。

だけど、とたんに申し訳なさそうな顔をして
俯くペーターに、こっちが焦ってしまう。
とても残酷なことを言ってしまったような錯覚をおぼえて、
理不尽と思いつつも抗えない。
本当に、この宰相様ときたら私の前でだけは まるで壊れ物だ。

「い、いいわ、いいのよ、ペーター!気にしないでったら、解らなくてもいいのよ、
 こんなに素敵なんだもの、解らない方が返って魅力的だわ!」

「そんな、僕なんかに気を使わないで下さいっ! 必ず調べておきます…!」

「本当だってば、それに、ここは私達の秘密の場所にするんでしょう?
 花の名前が解らないなら私達でつけちゃいましょうよ、
 その方が秘密っぽくて楽しいわよね?」

「え?…この花…の、名前を、ですか?…い、いいんですか?
 じゃぁ、ここを僕とあなたの秘密の場所だって認めてくれるんですね?!」

「もちろんよ、あんたが教えてくれた こんな素敵な場所を、
 他の誰かに教えるなんて失礼な真似しないわ」

「ありがとうございます! 僕、とても嬉しいです、嬉しいです、アリス!
 おまけに二人だけの花の呼び名だなんて、なんて素敵なんでしょう!
 僕は世界一幸せなウサギです!」

「相変わらず、ペーターは 大袈裟ね 」

「大袈裟なんかじゃありませんよ、こんな素敵なことって無いです!
 秘密の場所に咲く、二人だけの花の名前!…素敵です、素敵ですよ!アリス!」

不思議の国に訪れた春、森の奥の秘密の花園、二人だけの花の名前…
これでもかという程に乙女チックで、いたたまれなくなってくるほどメルヘンだ。

この上なくメルヘンな世界で、白ウサギが幸せそうに笑っている。

その笑顔を見るとこちらも幸せな気持ちになって、あぁ、これで良かったんだと思える。
本当は冷酷で嫌な奴の筈だと思うのに、いや、だからこそだろうか?
私の側にいる意味が、自分の存在する意味が、くっきりと浮き上がって見えてくる、
ペーターの瞳が、こんなにも私を必要と言ってくれている。
嗚呼、この気持ちは何だろう? 喜びの一種であることには違いない。
あんなに憎んでいたのに、不思議なものだ。

(なんだってこんな奴に私は…)

そう思ってはみても、目の前に広がる美しい光景に何もかも忘れてしまいそうになる。
彼の台詞では無いけど 本当に幸せ過ぎて、頭が真っ白になる。
何もかもが 綺麗 過ぎて 眩暈がする。

「何て名前にしましょうか? 二人の名前から一文字ずつ文字を取ったりなんてどうでしょうね?
 ね、アリスはどう思います? 男の名前がいいですか? それとも女の子の名前がいいですか?」

ペーターがまるで我が子の名前を考える若い父親のような所まで吹っ飛んでしまっている。
次々に思いつく限りの甘い台詞を、あれやこれやと吐いて、馬鹿みたいに可愛い姿。
恥ずかしい… こんな城の宰相なんて、恥ずかしくて誰にも見せられない。

「お、落ち着いて、まぁ 座りなさいよ ペーター ゆっくり考えましょう」

「はい、はい、そうですよね!こんな素敵なこと、すぐに決めてしまったら勿体無いですよね!」

そう言ってペーターにしては珍しく、直接地面に腰を下ろしてくれた。
近頃のペーターは、泥だらけになって花壇の世話をしてくれたり、本当に変ったと思う。

雑菌、雑菌と、人付き合いを毛嫌いする異常な程のきれい好きはまだまだ健在だけど、
こういう何気ない行動に、驚かされる回数が増えたのも事実だ。
これが春の与える影響だというのならば、このままずっと春であり続けて欲しい。

(そんな事を考える私の頭も相当イカレちゃってるわ…)

「ふふ、春っていいわね、ペーター」

「そうですね、ふふ、僕、春が素敵だなんて思ったの初めてです!」

「そうね、私もこんなに素敵だって思ったのは、初めてかもしれないわ 」


なんでもないあたり前の言葉を、絡めあって、紡ぎ合って、他愛のない会話が繰り返される。
絵に描いた幸せ、完璧な一枚の肖像画のような…
そんな美しい風景の一部になっているような感覚を覚えた。
穏やかな日差しの中で、腰を下ろしたペーターと、その傍らで寝そべる私。
その光景は まるで、姉と過ごした日曜日の午後のようだと思った。

いつもこんな風に、ペーターといる時、ふと姉の事を思い出すのは 何故だろう?
優しい微笑みのせい? 何もかも許してくれる彼の、優しさがもたらす安心感のせいだろうか?
こんなにも幸せそうな彼を見ていると、まるで、姉まで幸せなんじゃないかって思えてきて、
安心すると同時にとても不安になるのだ、何もかも許されたような気持ちになってしまう事がたまらない。
嬉しくて安心している、そんな自分にゾッとして 一瞬で我に返ってしまう。

(ダメよ アリス、何を考えているの、そんなわけ無いじゃない、これは許されないことよ?)

(何か大切な事を私は忘れているんじゃないかしら? 本当はこんなこと間違ってるのよ…)

(許されてはいけないのに、なんて罪深い事を考えているの…)

(酷い人間だわ…私には、幸せになる資格なんて有りはしないのに、)

まるで、突然に降って湧いた白昼夢だ。


こんな風に姉の顔がチラつく時はきまってそう…、突然に、
どこまでも美しく幸せな風景の中で、とてつもなく悲しい気持ちになる私が居て、
だけど、理由はいつも思い出せない。

理由の断片を捕まえて、言葉にして問いただすことさえ出来ない。


「…どうかしましたか?」

「い、いえ、なんでもないわ、名前を考えていたのよ?」

「でも、今、とても悲しそうな顔をしていました… どこか具合でも…?」

「そんなこと無いわ、平気よ、心配しないでいいわ…」

「そう、ですか? でも、本当に顔色が……」

「大丈夫だってば、そんな事より名前、考えましょうよ」

「ぁ…はい…そう、そうですね、名前、名前…なにがいいんでしょうか…」

そんな、思案の最中に妙な感傷を巡らせたせいだろうか、つい魔が差してしまった。
何故この名前を口走ってしまったのだろう、軽い気持ちだった筈だ。
だけど、確信的だったかもしれない、何かとても大切な、思い出さなくてはならないものの代わりに、
捕らえることが出来た唯一の手がかり、いや、唯一捕らえることの出来たものの一部なのかもしれない。
何がなんだかわからないが、とにかくそれはまるで、祈りのように、私の唇からすべり落ちた。

「ロリーナ」

私の発した音がペーターの耳に届いた瞬間の、彼の凍りついた表情にドキリとする。
意味はわからないけど、しまったと本能が感じた。

「や、やっぱり、ダメよね?」

慌てて取り消し肩をすくめて見せても もう手遅れだ。

いつだって、手放してしまった言葉は 二度と取り戻すことは出来ない。
似たような後悔を、前にもした事があるような気がして…胸の奥が痛んだ。

ペーターの 伏目がちな眼差しが、悲しげに彷徨っている。
あの春のような笑顔は、今は見る影も無い。
それでも、消え入りそうな声で 私の問いかけに応えた。


「…そ…の名前だけは、……嫌です、…絶対に…」

ペーターが私とのやり取りで何かを拒否することなど、ほぼ皆無だ。
その彼が、こんな風に塞ぎ込んだ物言いをするのだから余程の事なのだろう。

「あ、ご、ごめんなさい…ペーター、取り消すわ、だから…」

いつも私の前では、感情過多で 涙もろくなりがちなペーターだけど、
かと言って彼が私に 泣き顔を見せるのを良しとしている訳では無い。
本来、地位もプライドも高い男だという事くらい、こんなに一緒に居なくても解る。
今だって、彼の気持ちは、辛そうな顔など見せまいともがいているに違いないのだ。

そして 私と言えば、そんなペーターをいつも困らせてばかり。
根暗で、いつまでもウジウジとして 彼の好意をいつも台無しにしている。

それなのに、彼が、私にぶつけてくるのは いつも過剰なまでの愛の言葉と好意だけで…
気の毒過ぎていっそ憎らしい…けれど、こんなに優しいウサギを、どうして憎む事が出来るだろう?

(可哀想なウサギ…そんなに辛い思いをしてまで、私と居ることなんか無いのに…)

気まずい空気に、思わずタメ息を吐く私の顔を ペーターが そっと覗き込む。


「すみません…アリス、」

(どうして、あなたが謝るのよ…!)

「僕は、あなたの言うことなら、何だって叶えてあげたいのに…」

わずかに震える手で、私の肩を寄せ おずおずと包み込むように抱きしめる。

「すみません、アリス」

「謝らないでよ…」

「でも、アリス… 僕は、あなたが好きなんです… 大好きです、アリス、アリス……」


思いつめたような声で何度も何度も…ペーターは囁き続けた。
まるで許しを請うように、何度も、

「やめて、やめてったら、ペーター…ッ!」

「アリス?」

「どうして、そんなに優しくするのよッ!?辛いのはあなたの方だったんじゃないの?
 嫌なことがあるのなら、怒ればいいじゃない!
 そうやっていつも意味の無い言葉で誤魔化さないで!」

言いたいのはこんな事じゃないのに、上手く言葉が紡げない、
どうしたらいいのか、本当は解っている筈なのに… 言葉が見つからない。

とても幸せだったのに、とても大切な時間だったのに、
すれ違って行く事を、どうして いつも止める事が出来ないのだろう?

「だから、嫌なのよ…あなたと一緒にいるのは…ッ」

「………ッ!!」

酷い、私はペーターに酷い事ばかり言う…、どうしてこんな事が言えるのだろう?

「あぁ…すみません…すみません…アリス、違うんです、僕は…僕はただ…、
 ねぇ、他の名前を考えませんか? 僕、考えたんですけど……」

「いいわ、もう、そんな気分じゃなくなったから、帰る!」

私はさらに酷い追い討ちをかけた。

どうしてここまで冷たく出来るのだろう?どうして優しくしてあげられないのだろう?
そんな自分にも背を向けるように、私は 踵を返し 楽園を後にする。

彼の好意を卑屈だと思うのは 私が卑屈だからだ、
それを苛立たしく思うなんて私の身勝手ではないか。
逃げ出すのは、私の弱さだ。

だけどペーターは、どんなに私に傷つけられても
決して離れようとはしてくれない。
決して揺るがない 彼のその強さが、いっそ妬ましい。

「待って、待ってください、アリス!」

「うるさいわね!」

(違うのよ、こんなの間違ってる、怒るのはペーターの方よ)

「アリス!アリス!!」

追い縋ってくる白ウサギを振り払いながら、情けなくて、涙が出た。

泣いたりしたら、どんなに白ウサギが困るか私は知っているのに、
本当に泣きたいほど悲しいのは、私ではなく、ペーターの筈なのに、

(ごめんなさい、ごめんなさい…)

それでも、靄がかかったようにどうしても解らないことがあった。

(ペーターはどうして、私の姉さんの名前が、そんなに嫌いなの?)

思考が乱れて、声に出して問いただす事さえ出来ない。

(何故? 何故なのよ?)

走りながら、今、何を考えていたのかさえ
まるで木漏れ日の中に舞う蝶のように、光の中へ見失う。

(ペーター、こんなのおかしいわ、おかしいのよ…、でも、上手く説明できないの…)

「アリス、行かないで、待ってください、悪いのは僕なんです!」

ペーターが背中から投げかけてくる言葉がまるで心を読めるナイトメアとの会話みたいに
私の中の言葉にならない思考と 何故か 不思議に噛み合っていく。

(何がなんだか解らないわ、でも違うの、何かが間違ってるのよ、)

「僕にはちゃんと解っています、だから、悲しまないで!」

(私が悪いのよ、ペーター あなたはちっとも解っちゃいないわ!)

「あなたは少しも悪くない、僕にはわかっています、怒って当然なんです!
 すみません、僕が悪いウサギでした、謝ります 何度でも、謝りますから…
 だから、待ってください、行かないで、行かないで下さい、アリス!!」

ウサギは必死だ。
どうして私なんか相手に、ここまで必死になれるのかまったく理解できない。
普通なら諦めて、追うのをやめてもいい頃だろう。
しつこい、粘着質で異常なウサギだ。

けれど、その粘着質に私がいつも助けられているのも事実で、
彼がもっと私に無関心だったら、今頃ここに無事に生きては居られなかっただろう。
生きていたとしても、独りぼっちで泣いていたのかもしれない。
少なくとも、彼は私から離れないで居てくれたし、どんな場所に居ても見つけ出してくれる。
そこだけは他の何よりも、誰よりも、信用に値するウサギだった、今だって、そうだ。

今日だって、あのままペーターが私を見送って、追って来てくれていなかったらと思うとゾッとする。
元来た道を戻っていた筈なのに、私はどうやら間違った道を進んでいたらしい。
突然 足元が不確かになり、身体が行き場を失ってバランスを崩した。

「わッ……!!?」

そこは断崖絶壁、と言ってもさほど高くも無いが、眼下はかなり流れの速い急流だった。
きっと、落ちれば流されて、ひとたまりも無かっただろう。
耳を澄ませていれば 水音にも気付いただろうに、相変わらず私は間が抜けてる。
しかも足を踏み外すまで気付かないなんて、恥ずかしいにも程がある。

「…ペーター!」

「危ないですよ、アリス…」

後ろからしっかりと抱きかかえられた状態で、やっと我に返った。
その場所から少し離れて、どっと座り込む。

「た、助かった……」

「大丈夫でしたか?!…ケガは?! どこも痛くありませんか?! 病院に行きます?!」

心配そうに覗き込む白ウサギが、確かめるようにオタオタと身体に触れてくる。

「もう、大丈夫よ…」

そう言いながら、そっと彼の手を押しのけると、彼もそれ以上は触れて来なかった。

やっと返事をした私に安堵したのか、不安の入り混じったような切ない表情を浮かべて
こちらをじっと見てくれている、それを、今は素直に嬉しいと思った。

だけど、いささかバツが悪くて目が合わせられない。
こんなに心配させて「気をつけろ!」と一喝されても文句は言えない状況なのに、
ペーターは少しも私を責めないし、叱らない。

(どうして、そんなに優しいのよ…)

「…あ、ありがとう、助けてくれて…」

「お礼なんか、それより気をつけてくださいよ アリス、あなたに万一の事があったら、僕は…」

「ごめんなさい…」

「あぁ、謝らないで下さい アリス、謝るのは僕の方なんですから、
 あなたをこんな目に遭わせてしまうなんて…
 僕はダメなウサギです、すみません、すみません…アリス…」

(ペーター、あなた 優し過ぎるわ…)

驚きと、急激な感情の変化に身体がついて来れていないのか、なかなか動悸が治まらない。

(私みたいに薄情で酷い人間が、こんなふうにドキドキしているなんて滑稽だわ、)

この早鐘のように高鳴る心臓の音は、ペーターみたいな人にこそ相応しいモノのように思えた。
こんな自分が、私は嫌でたまらないのに… ペーターは私を、私なんかを好きだという。

(どうして私なんか好きなのよ…、私なんか、ちっともあなたに相応しくないのに…)

ペーターは変らず、いつまでも私だけを好きだとか、夢のようなことばかり言ってくれる。
それはとても嬉しくて、けれど同時に、それと同じくらい悲しくてたまらない気持ちになった。

「さぁ 帰りましょう、道は こっちですよ、アリス」

そういって手を差し出す彼は、決して迷わない、私だけの道しるべだ。

(私は、この手を 放しちゃいけないんだわ…)

何も解らないけど、それだけは確かなことのように思えて 彼の手をとった。
白い手袋越しに彼の温度が伝わって来てホッとする。
どうして同じような事を何度も繰り返してしまうのだろう…私は、本当にどうしようもない。
安堵して、そんな自分が情けなくて、いろんな感情がない混ぜになって、また涙がこぼれた。

(いつから、こんなに弱くなってしまったんだろう…)

私は、彼に手を引かれながら、まるで迷子の子供みたいに泣きじゃくってしまった。
ペーターは本当に困り果てたように心配そうに話しかけてくれるから、ますます涙が止まらない。

「ああ、アリス、大丈夫ですよ、丈夫ですから、もう泣かないで…」

手を引いているペーターが、まるで遊園地の迷子係のお兄さんみたいだ。
迷子係のお兄さんは立ち止まっては振り返り、
私の顔を覗き込んでは心配そうに ハンカチで涙を拭ってくれる。
そして、優しく頬を撫でて、そっとキスをしてくれるのだ、キャンディーよりも甘いキスを…、
彼が、遊園地の迷子係と違う点は、誰よりも私を愛している事かもしれない。

私は甘えている、姉に対してよりも、もっと、ずっとペーターに甘えている。
そんな事を思いながら、すべてが涙になって流れていくように、再び私の頭は真っ白になっていく…
降り積もる白い花弁が 悲しみをすべて覆い隠すように、私の何もかもを洗い流してしまう。

きっと、彼の苦しみを詮索するなんて無粋で無意味なことなのだ。
私は、この手を放さずに 信じていればいい…
たくさんのものを手放して、捕まえた、たったひとつの大切な手を…

それは、呼べば必ず その瞳をこちらに向けて微笑んでくれる、ハートの城の白ウサギ。
深い森の奥で 私にだけ、摘み取る事を許してくれる 白い花のような人だ。


その 花の名前を、私は、
今も密かに「ペーター=ホワイト」と、呼んでいる。

end

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編集後記

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